プロフェッショナル 仕事の流儀
昨日、「浜祭」で
武田真治さん(サックス奏者)
岡部磨知さん(バイオリニスト)
以下特別ゲスト
織田哲郎さん(ミュージシャン)
世良公則さん(ミュージシャン)
神保彰さん(ドラマー)
を拝見した。
「楽器楽園~ガキパラ~」という音楽番組の公開収録をしていたのだが、タイムテーブルから30分遅れで収録を開始した。というのも、収録前の音取りに演者さんが納得いかず、何度も何度も試行錯誤し、ついに始めたからだ。
武田さん、岡部さんの2人が特に入念に音をチェックしていた。
「僕のモニターに音が…」「もう少し…」「ダウンダウン」
何を言っているんだ?素人の僕には何が何だか分らない。しかし、彼らにはその道のプロとしてのプライドがあるのだと思う。客の前で恥ずかしい演奏はできない。ゲストの前で恥ずかしい演奏はできない。そんな音楽家としての矜恃がひしひしと伝わってきた。
また、武田さんは、本番前の張り詰めた雰囲気を収録中には全く見せず、いつものポンコツトークを展開していた。
「芸能人ってすげえなあ」
そんなことを思いながらステージ上の武田さんらを見る。芸能人だけではなく、仕事とプライベートでディブ(分人)を使い分けている人は多いかも知れない。それでも、武田さんのあの豹変ぶり(語弊があるかもしれない)は凄まじい。
オトナだ。プロフェッショナルだ。
織田哲郎さんと世良公則さんは、僕の想像するミュージシャン像にぴったりだった。世間に迎合しないような雰囲気はなんとも言えない。
生で見た女子アナウンサーは写真で見るよりも3倍は綺麗だ。
彼女たちも、番組で見せる自分とは異なる分人(ディブ)を私生活で使いこなしているのだろうか。
まあ、しがない一男子大学生には夢(虚像)を見させてやってください。
「ハロウィーン亡国論」が現実のものに
つい先日紹介した「ハロウィーン亡国論」が、アメリカで現実のものとなってしまった。
現地時間10月31日、米ニューヨークマンハッタンで、小型トラックが自転車専用道路を暴走し、少なくとも8人が死亡したテロ。
男は暴走した後トラックを乗り捨て、拳銃のようなものを振りかざしながら走って逃げ出した。犯人は警察に射殺されたが、事件を目撃したという男性はテレビの取材に「今日はハロウィーンだから、最初は何かのイベントかと思った」と答えたという(YOMIURI ONLINEより)。
日本では他の衝撃的な事件が報道され、比較的認知度が低いかも知れないが、古谷経衡氏が警鐘を鳴らしていた「ハロウィーン亡国論」が、ハロウィーンの本場であるアメリカで現実の物となってしまった。
ハロウィーン亡国論については前の記事を参照してもらいたい。
しかし、こんなにも早く実現してしまうなんて、古谷氏おそるべし…
実は、一年ほど前までは古谷氏を馬鹿にしていたところがあったが、さすが「評論家で飯を食うだけのことはあるなあ」と、思った次第。
このハロウィン亡国論も、最初は冗談として聴いていたけれど当たってしまった。
まあ、日本とは国際環境もまるで違うし銃社会という危険な環境ということもあるが、何よりも怖いのは事件現場にいた男性のコメント。
集団で騒いでいるところで、いきなり車が突っ込んできたり銃が乱射されたりしても、即座に状況を理解し対応することは難しいと思う。
ましてや「平和ボケ」と言われる今日、アメリカ人でこの反応なんだから、日本人ではまず無理… とは一概には言えないけれど、難しいところではあるなあ。
お~怖い。
明日は我が身っていう心持ちで生活せねば。
もう気づけば11月。
毎年、家族そろって年を越すことを幸せに感じることから始めようか。
ハロウィーン亡国論
10月の末、日本の各地が無秩序状態になる期間がある。
宗教上の成り立ちから完全に離れて、若者たちが仮装大会を行う。
歩行者天国には、狂ったように飛び交う「ハッピーハロウィン」の声。人混みに紛れて痴漢行為が横行し、夜が明けると道路には大量のゴミ。DJポリスもなんのその、ぱりぴに揉まれて仕事にならぬ…
礼儀がない、節度がない、モラルがない… まさに「ハロウィン盛んで国亡ぶ」
とまあ、ハロウィンに参加したことがなく狭い視点でしか見れないためにこういったことを書いたのだが、古谷経衡氏が唱える「ハロウィーン亡国論」には、なるほどと思うところがあった。
ハロウィーン亡国論とは、簡単にまとめると
1,ハロウィンには2人以上からの参加が多く、1人では参加が難しい。つまり、友達がいない人々には参加資格がなく、ハロウィンに浮かれる人々に対する嫉妬やそこから派生する憎悪による犯罪が増える。
2,ハロウィンには返り血を浴びたコスプレや、玩具の自動小銃や猟銃を持つ人々がいる。もしも本当に銃を持った人や殺人犯がいても「これはハロウィンのコスプレです!」の一言で警察の眼をごまかせる可能性がある。ハロウィンに便乗した犯罪が起こる可能性はこれから増えるだろう。
論理の飛躍が気になるところだが、個人的に2には大いに同感する。
確かに、普段ならあり得べからざる格好をしていても、「ハロウィンだしなあ」で済んでしまうだろう。ナイフや鈍器などの凶器を持っていても、それ以上に目を引く格好をしている人々が多々いる中では、印象が薄れてしまう。
僕は昔からハロウィンには良い印象を抱いてなかったから、古谷氏の言いっぷりは実に痛快であった。オードリーの若林さんや古谷氏など、社会を斜めから見る人々に好意をもつ傾向があるのはどうしたものか。
友人とバカ騒ぎするのは結構だが、周りに迷惑かけるなよ。ゴミは片付けろ。あまり周囲の人が不快にならないような仮装をしろよ。言いたいことは山ほどある。とか言いつつ、女性のセクシーな仮装には期待をするんだよ、男だから。
自分にも言えることだが、節度を持つべきだ。
「日本人は周りの目ばかり気にしていて疲れる」などといったことが聞こえるが、てめえらのしていることは個人主義に則ったものではない、単なる自分勝手だ。勘違いも大概にしろ。外国の価値観・文化を表面からしか受容しないからこんな事態になるんだよ。
話は変わるが、一男子大学生の目から見ても、自分を含めて人間は退化していると思いますなあ。
ハロウィンに限らず、日本は亡国寸前ではないか。それを日本の文化の特殊性に帰結するのはどうかと思うねえ。日本を持ち上げすぎるのも気分が悪いが、卑屈になりすぎるのも気持ち悪い。
路上でバカ騒ぎしないで、友人と酒でも飲み交わそうよ。吐くまで飲むなよ、節度がないからね。
いつから日本の秋は騒がしくなったのかなあ。静かに読書ができないじゃないか。
資本主義に生きる 『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読んで
人見知り。女子が苦手。おうち大好き。
僕は、お笑い芸人の若林正恭さんに勝手にシンパシーを感じている。
彼が著わした『社会人大学人見知り学部 卒業見込』は、彼の思考回路からなにまでが皮肉と共にコミカルに書かれている。
「あるある!」って思わず言いたくなるんだよなあ。あそこまで世の中を斜めから見てはいないけれども。
今回は、若林さんの『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読んだ。隙間時間にさらっと読めるエッセイが大好物な僕にとって、まさに格好の本でしたな。読書が嫌いな人はエッセイから入った方が良いと思う。うむ。
この本は、若林さんがキューバに旅行に行ったエッセイなんだけれども、いろいろと考えさせられる。資本主義、競争社会、勝ち組、負け組、スペック…
勝っても負けても居心地が悪い。
いつでもどこでも白々しい。
持ち上げてくるくせに、どこかで足を踏み外すのを待っていそうな目。
祝福しているようで、面白くなさげな目。
笑っているようで、目が舌打ちしている。
今の世の中を的確に言い表している気がするのは僕だけだろうか。
ネットの掲示板などを見ていると、誰もが評論家を気取って外野から論評している。何か意見を出すのでもなく、ああだこうだと言い散らかしている。
気分が悪い。高校の文化祭準備の時の自分を見ているようで。クソとしか言い様がない。
僕の思想はやや右よりだから、社会体制としては社会主義や共産主義には双手を挙げて賛同はできない。が、この本を読む限り、人と人とのつながりは何にも代えがたいと思った。
キューバでは、人々の関係に白々しさがないという。これは若林さんの主観であるからなんとも言いがたいが、自分の周りを見渡すと、確かに白々しさはあるように感じる。大学での関係なんかそうじゃないか?
とりあえずトモダチを作る。そのトモダチは自分の代わりに講義の出席をとってくれる。そのトモダチといることは自分にとって利益がある。そういった関係のなかから、本当の友人ができてくる。それは最初に比べるとごく少数だ。そういう友人との関係には白々しさがない。
日本でも、都市部に比べて、過疎地域や限界集落と呼ばれる地域には、まだそういった関係で構築されていると思う。野菜などをお裾分けしたり、道で会えば長話。そういった関係を「閉鎖的だ」「ムラ社会特有の陰湿性」などとも言えるだろう。しかし、祖父の実家の地域を見る限り、「人と人とのつながり」はずっと濃い。競争、広告、その他多くのものが希薄な環境には何かがある。
キューバでは、これよりも純粋な「平等」が一国全体に広がっているのだろうか。
僕は先にも申したとおり「右より」だ。競争によって世の中が良くなると思っている。皆が平等になったとしても、「勝ちたい」という動物としての本能が許さないと考えている。その点では、アメリカ型の資本主義はこれほどにないシステムだ。
「やりがいのある仕事をして、手に入れたお金で人生を楽しみましょう!」
「やりがいのある仕事をして、手に入れたお金で人生を楽しみましょう!」
そうだなあ。そのはずなんだよ。
受験を乗り越えて、「いい大学」には入ったんだ。
世の中、金だけれど金じゃない。そうだ、金じゃない。
金持ちは、資本主義社会での勝者であって、人間としての勝ち組じゃない。
そうだ!世の中金じゃねえぞ!!
ん、俺が生きているのは資本主義社会。ってことは…
若林さんの本を読むと、必ずと言って良いほど矛盾した感情が生まれる。世の中を斜めから見てしまう。人生とは決して良いものではない。それは皮肉と葛藤に満ちている。そんな感情になるんだよなあ。
しかし、某有名作家曰く
「人生に希望を見いださせるのは二流文学。人生に絶望を抱かせるのが一流文学」
って言ってたっけ。
その点では、若林さんの本は「1.5流文学」かな?
ああ~、葉巻を吸いながらモヒートを飲んでキューバンジャズに乗って踊る人々を笑顔で眺めてえ。
「やれやれ資本主義…」 どろだんご日記より
旅をする前にこれを見ろ 伝説の旅番組「水曜どうでしょう」
ローカル番組でありながら、その独特な番組スタイルから全国的人気を博した伝説の番組「水曜どうでしょう」が、今、個人的にあつい!
見所が数多くある「水どう」だが、特に目を見張るのは「出演者のしゃべりのうまさ」である。大泉洋さんやミスターこと鈴井貴之さん、加えて、藤村Dのべしゃりの巧さときたらそりゃあもう、恍惚さえ感じますよ。巧く絡み合い化学反応起こす、その光景を見るだけで明日も頑張ろうと思える(個人差あり)。
物思い
「大学の四年間」とか言っていたけれど、よくよく考えてみたら、そこまで長くねえな。ってことに気づいたこの頃。
就活は三年の中旬頃から始まるみたいだし、公務員試験の勉強はなるべく早く始めた方が良いらしい。なお、自分から調べる努力はしていないので全て伝聞である。
大学に入ってからそろそろ半年がたつ、のだろうか。早い。「時間がたつのは早いぞ~」とか慣習的に言っていたが、19年の人生で初めて身を以て感じている。
卒業後を見据えて、様々な資格の勉強やインターンに行っている学友もいる中、本を読んで筋トレをしてラジオを聴いている小生はどうしたものだろうか。
まして、「童貞卒業する」などとブログというある意味‘公の場‘で放言しているクズ野郎はいかがなものだろうか。
就職、試験、資格、インターン…
でもさあ、ちょいと待っててくれねえかなあ。
朝っぱらから、隣部屋から酒による嘔吐の不快な音が聞こえてくるのは勘弁してほしいけれども、酒飲んでバカやってるパリピの人たちは良いと思う。俺はそんなまねはしないけれど。
大学という、特殊な環境下で思い切り(無理にでも)楽しんでる姿は美しい。
大学は、就職予備校じゃないんだからさ、先のことを考えるのはほどほどにしようと思った次第。
というか、自分に言い聞かせているな。
講義も始まり生活リズムも元通りになった。
講義中、板書を音ありのカメラで撮っているやつらを張り倒したくなった。
秋という季節に、どうしようもない物思いに耽る。
鍛錬
心を鍛える。体を鍛える。
大学生の間に鍛え抜かねばならない。
鍛錬との対極にある生活(と個人的に思っている)を送る大学の四年間で、鍛えて鍛えて鍛え抜かねば…
というのも、僕は大学卒業後に、海上自衛隊の幹部候補生学校に進もうと思っているからだ。
自衛官。海外では軍隊。
今のままでは、入学したとしても卒業する前にリタイアしてしまうだろうな。うむ、絶対にするだろう。今の自分は怠惰な生活を送るクソ大学生なのだから。自覚はある。このままではいけないという危機感もある。前の記事にも書いたが、女性と話そうとしないのも、この「怠惰」にあるのかも知れない。
自衛隊(軍隊)と怠惰って、なにがどうなっても結びつかんでしょ。
かといって、
「よし!今日から規則正しい生活を送るぞ!」
と言って実行できるはずもなく、というか、そんな実行力があったらこんな生活をするはずもなく…
そこでだ。
僕は八月の中頃から、筋トレをしているのだよ。筋トレって言っても、自己流の効率が悪いであろうやり方だけれども。幸いなことに継続できている。
よく、筋トレをする人に、「ストイックだね~」って言う人がいるじゃないですか。つまり、筋トレは鍛錬って事だよな。筋トレ=つらい=鍛錬 の構図ができている。だって、「大変なことはなるべくしたくない」っていうのが人間の(僕だけか?)嘘偽りのない気持ちだもんなあ。
筋トレによって、
体を鍛える⇒心が鍛えられる
が実現できるんじゃねえかと思った次第です。
単純すぎるよ君。分かっとる。安直すぎる。分かっとる。
ただ、何かで己を鍛錬しないと生きている実感がないんだよなあ。
ここ最近、ムキムキの人を羨望のまなざしで見てしまう。
ゲイではない。
春日すげーよ。鍛錬の人だよ。
アドリブがきけばなあ。