ジンセイ入門

男子大学生の戯れ言

文筆家・古谷経衡氏「出版業界お先真っ暗。お金欲しい。もっと本を買ってください。」

ロンブー淳のラジオにて、古谷氏の話に不謹慎にも笑ってしまった。

f:id:jsamu:20180217142238p:plain

その話というのが、

「納税者として発言したいが、大した額を納めていないのでその資格はない。物書きで食っていくのは本当に大変。成功するのはほんの一握り。お金稼ぎたい。もっと書籍を買ってください。」

というものだった。

 

 佐川理財局長に対する国民の反発が高まる中、納税者として国に抗議する人々が増えているという。しかし、古谷氏は(謙遜なのだろうが)億単位で払っているのならいざ知らず、大した額を払っていない自分に抗議する資格はないという。

 

また、彼はいつにも増して後ろ向きな発言を続ける。

「出版業界の展望なんか、雨を通り越して゛暴風雨゛ですよ。皆さん僕のことを誤解しているようですけれど、本当に大変ですからね。なんなら、もっとお金を稼いで血税をお上に納めたいくらいです。」

謙遜だろうが、私はこんな赤裸々な発言を電波に乗せられる古谷氏に好感を持っている。

「独身なら、頑張ればそれなりの生活を送れるかも知れないが、執筆活動だけで妻子を養っていくのは難しいのではないか。妻が文筆家なら夫はサラリーマンでやっていくのが妥当(逆も然り)。僕の知人なんかは、執筆活動の傍ら内職をやっています。」

 

古谷氏の自身の職業と出版業界とに対する見方はたいへん暗いものだが、こんなにも彼の愚痴りを聴いたのは初めてだ。

早速、古谷氏の本を買いに行こう。いや、様々な作家の本を買おう。

より多くの人がが本を読むだけで、世の中が゛少しだけ゛動くのだろう。

私は「万事が目に見えない形でつながっている」という池波正太郎氏の考えに感銘を受けたが、その感が日に日に増している。因果応報。時間がある学生時代に本を読まねばならない。

 

古谷氏のこの話はradikoのタイムフリー機能で聞けるので、是非とも聴いてみてほしい。

日本を蝕む「極論」の正体 (新潮新書)

日本を蝕む「極論」の正体 (新潮新書)

 
「道徳自警団」がニッポンを滅ぼす (イースト新書)

「道徳自警団」がニッポンを滅ぼす (イースト新書)

 
「意識高い系」の研究 (文春新書)

「意識高い系」の研究 (文春新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんと言われようとも、僕の「現物主義」は揺るがない

僕は所謂「保守」である。

まあ、保守と言っても、過激派とか極端な思想を持っているわけではないが。

「変わらないものを好む」という点で、保守と言っている。

 

 

 

 

僕の祖母は、偏屈者だ。素直の対極に位置し、頑固者である。それと同時に、生粋のリアリスト。僕の短い人生の中で、最もクセの強い人が祖母である。

 

そんな祖母を僕は、大変尊敬している。僕は、俗に言う「お婆ちゃんっ子」であり、祖母の助けなければ、今この様な生活は送れていないだろう。

僕のものの考え方には、祖母が大きく影響しているように思う。

 

 

 

 

先述したとおり、祖母は「リアリスト」である。

決して楽観することなく、冷静に物事を見極める。

そんな祖母は、驚くほどに「現物主義」である。

 

キャッシュレス化が進むこのご時世。クレジットカードだの何だのと世の中が便利になっていく中にあるが、祖母はそういった類のものを持たない。

「震災などで停電したら、そんなものは直ぐに使えなくなる」と言い、家には常に、現金100万円程が用意されている。峰不二子ばりの現金至上主義者だ。

 

僕は、祖母のことを「行き過ぎ」だとは思っていない。常にそういった事態を想定し、リアルを見つめる彼女を尊敬している。

 

 

 

 

現物主義であり現実主義者である祖母の影響を受けいている僕は、言わずもがな現物主義者である。

やはり、手元に現金がなければ不安になる。

電子書籍を買うつもりはない。積ん読になっても、本棚に実物がなければ気が済まない。

 

 

 

 

ますますハイテクになっていくこの時代、現金がマイノリティになるのは必定だろう。北欧では既に、現金が廃止になっていると聞く(ネットで見た情報なので真偽は定かではない)。

その時代にあって未だに進んでいない僕を、「時代遅れ」と言う輩もいるだろうが、なんと言われようとも、僕の「現物主義」は揺るがない。

 

 

 

 

言葉だけでは伝わらないから、チップなどで気持ちを表す。

抽象的な議論よりも行動で示せとは、よく言われることである。

「モノ」でなければ不安になる。具体的でなければ嫌になる。

 

 

 

 

難儀な考えを持ってしまった。

しかし、祖母はしっかりと自分をもって、凜凜しく生きている。あんなに自分を貫いている人には、なかなか出会わないだろう。

僕も、しっかり自分をもって生きていこうと思う。

 

そして、今日も今日とて、Amazonで「代引き手数料」を取られる僕であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年で1番感動した映画 『ラストレシピ 麒麟の舌の記憶』 

大学に入ってから、月に1回は映画館に行くようにしている。

まあ、多くはない。毎週行きたい気持ちはあるが、金がないのだからしようがない。

 

 

僕が今年観た映画で、「感動する」と言われて思い出すものには

『君の膵臓を食べたい』『ナミヤ雑貨店の奇蹟

がある。

 

 

確かに、心に来るものはあった。鑑賞後、浜辺美波さんのファンになったし、山田涼介さんを応援したくなった。

しかし、ここまでなのだ。

 

 

「ここまで」と「そこから」の間に、僕は明確な隔たりを設けている。単純で幼稚なものである。それは「原作を買うかどうか」だ。

 

僕は、人並みに本を読んでいる。大学生というモラトリアムに、なるべく多くの知識を付けたいと思っているのだが、僕の読書の主眼は知識の蓄積である。本棚を見渡すと、見事なまでに小説がない。バランス良く読んでいきたいと思っているが、どうしたものか。

映画の原作は小説等がほとんどであると思う。従って、小説にアレルギーを持つ僕が原作(小説)を買うのは、僕の中では大変な事件なのだ。

 

 

 

 

そんな事件が遂に起きた。

f:id:jsamu:20171125142051j:plain

『ラストレシピ 麒麟の舌の記憶』は、二宮さん演じる孤高の天才料理人が、歴史に葬られた「幻のレシピ」の謎に挑む、といったような話だ。

 

帝国時代の日本と現代日本を行き来しながら話が進むが、作中に出てくる料理が実に美味しそうで、終始「飯テロ」を受けている状態であった。

料理の描写がかなり凝っていたように思う。

 

ただ、エンドロールの際に、料理名と映像が出てくるのだが、個人的感想としてだが、料理のネーミングが絶妙にダサかった様に思う。お高い料理に慣れていないからだろうか、笑い出しそうになった。

 

 

映画の中盤以降は、油断するものならば直ぐに涙を流しそうだった。

「男たるもの、周りに人がいる中で泣いてはならん」という素朴な信念があるので、その場では泣かなかったが、かなり危険な状態に。金曜ロードショーの『ALWAYS 三丁目の夕日』では簡単に泣いたが。

 

 

僕は、

「料理映画の定番といえば?」

と問われたならば

「ラストレシピ」

と、答えるだろう。

 

まだ観れると思うので、多くの人に観てほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に、上映前の予告で気になったことが1つ。

恋愛映画が多すぎやしないか?それも三角関係的なものが。

直ぐにキスをするし、観ていて辟易とするのは独り身の嫉妬が原因なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんにちわ」じゃねえよ

「こんにちわ」「こんばんわ」

じゃあねえわ馬鹿野郎。

 

 

これらの表記に違和感を感じた人は正しい。

正しくは、「こんにちは」「こんばんは」である。

 

 

「こんにちは」「こんばんは」の由来は、昔の人々が人に話しかける際に

今日は、天気が良いですねえ。」や「今晩は、この様な時間にどこへお出かけで?」

と言っていたことから来ているという。

 

 

現代のように、「こんにちは(今日は)」単体で使われるようになったのは、吉原からだそうだ。

遊女が客に挨拶をする際、「今日は、うんぬんかんぬん…。」と話しかけるのは、いささか堅苦しい。客は、楽しみに来ているのに、これではリラックスしない。

そこで、遊女たちは「こんにちは」「こんばんは」と、それまでとは異なったカジュアルな用法を編み出したのだ。これによって、客はリラックスし、挨拶として定着していったのである。

※某TV番組参照

 

 

たしかに、「こんにちわ」でも「こんにちは」でも音に変わりはないのだから、読むうえでは支障はない。

しかし、「ん?なんか変じゃねえか?」と思う人は少なくないと思う。

もっとひどい奴は、「これわ…(勿論『これは』が正しい)」などと馬鹿丸出しの文を書く。傍から見ていても、恥ずかしいことこの上ない。

 

 

 

言葉は、時を経るごとに変わっていくものだ。現代の言葉は、平安時代はもちろん、江戸・明治あたりともだいぶ異なるだろう。

正しい、きれいな日本語には確かな教養が感じられるが、一つの誤りもなく使用するのは難しい。

ただ、話す際に最初に発するのと同じように、ブログなどを書く際に文頭に来ることが多い「こんにちは(こんばんは)」くらいは、正しい表記で表してほしい。

 

 

 

誰もが社会人になるが、そこで重要とされるものの中に「教養」があると思う。

正しい言葉遣い、漢字、服装、マナー…etc

こういったものは、一朝一夕で身につくものではないだろうから、大学生のうちに少しでも身に着けたいものだ。

 

 

 

最後に。

僕は、こんな小言幸兵衛だが、自分が間違った表記をしても大いに棚に上げるので悪しからず。

 

 

 

 

「勉強ができる」だけでは通用しないのは本当なのかも知れない

兄が就職に失敗した。所謂「就職浪人」になるそうだ。

就職浪人は大変だとよく言われるが、そうするほか無い状況なのだから仕方が無い。

 

 

 

 

僕は多少驚いたが、

「案外、身近な話なんだなあ」

と、いうのが正直な思いだった。

 

 

 

 

兄は所謂「秀才」で、努力の人だった。大学も某旧帝大に進学し、勉強は兄弟の中で1番できる。

僕の兄に対する印象は「真面目」の他ない。僕からも、周囲からも優等生だと思われていた。

そんな兄に対して、「いい大学の法学部を出るんだから、国家公務員にでもなるんだろうなあ」なんて思っていたのだが、兄は大学生活を謳歌したらしい。

 

髪の毛を明るい色に染め、飲み会・サークル・恋愛…etc

まさに人生の華。楽しかったんだろうなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな兄が就職に失敗した。

準備が遅かったからなのか、ただ単に周りの人たちよりも諸能力で劣っていたからなのか、どうなのかは分らない。大手銀行や省庁などを受けたらしいがことごとく敗北。昨今、前ほど就職状況は厳しくないとのことだが、良いところを目指すとなると難易度は変わらないのかも知れない。

 

しかし、今回の兄の失敗の原因は

1,準備が遅かった

2,対策をおろそかにした

3,少数の企業(役所)しか受けなかった

ことにあると考える。

 

準備の早い人は続々とインターンシップや説明会に参加している。就活解禁したからか、学内でもリクルートスーツを着ている人を見かけるようになった。詳しくは知らないが、遅くとも3年の後期あたりから始めねばならないにもかかわらず、兄は遊びほうけていたのだろう。その頃兄は金髪であった。

また、周囲の話を聞くと、何十社も受けている人が多くいることに驚く。「数打ちゃ当たる」方式なのだろう。その点、兄が受けたらしい社数は少ないように感じられる。一流大学のプライドがそうさせたのか、怠慢からなのか。おそらく後者だろうなあ。

 

 

受験浪人は「あと一年頑張るぞ!」となるのだろが、就職浪人はそうはいっていられない。もう戦いは始まっている。

 

 

家族として、兄弟として、「しっかりと飯が食える」職業についてほしいと切に願う。

 

 

 

 

 

大学一年の年も、およそ3/4が過ぎようとしている。この調子であっという間に就職するんだろうなあ。

とにかく、準備はしっかりやらねばならん。

 

 

 

てか、インターンシップを受けてきた三年生の先輩が「み○ほ銀行のさ~」とか話していたんだが、この先の銀行ってどうなんだろうか。

まあ、しっかり準備しているようだから心配は無用でしょう。

 

 

 

 

 

 

私のブログ観

暇な男子大学生でも、いや、暇だからこそ、頭の中でいろいろなことを考える。

 

 

 

 

 

自分の将来についてもぼんやりと考える。生意気ながら、生き方、理想像、異性、世界について思いを馳せる。大学生というモラトリアムだからこそできる贅沢だ。

 

 

 

 

 

そういった思いを発信するツールとして、TwitterなどのSNSが多くの人々に利用されている。思ったことをその時々でつぶやき、生活している。

僕も高校一年生までは、Twitterを大いに利用していた。今考えると、恥ずかしくなるほど、恥も外聞も無くつぶやいていた。

 

そんな現代、ブログを利用している人は、SNSほど多くはないだろう。

ファンならば、タレントのブログを読んでいるかも知れないが、自分で書いている人はそれほど多くはないのではないか。Twitterほど手軽ではないし、写真を中心とするならInstagramとやらが便利だと聞く。

では、ブログとは。ブログには何がある。

 

 

 

 

 

 

 

古今東西の偉人からそうでない人まで、人々は「日記」なるものを書いて、その日その日に感じたこと、思ったことを綴ってきた。小学校の長期休暇では、日記という、あの忌まわしい宿題に身をやつしてきた。今となっては、好き好んで駄文を書いている。小学生の自分に見せたいものだ。

 

 

「一定期間の自分を整理する」という行動は、人間に与えられた特権である。自分の思考、生活、成果を整理するからこそ、整理し区切るからこそ、過去や未来などと言える。

人間以外の生き物に、過去や未来などといった概念があるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

整理するにはある程度の蓄積がなければならない。蓄積した、考え・思い・知識の山から、新たな形のモノを作り出す。

 

 

 

 

Twitterは、蓄積する前に垂れ流している。その場その場で完結してしまうから、整理がなされない。Twitterに対する偏見かもわからんが、頭は使われていないような気がする。楽しいのならそれはそれで立派だけれども。

 

 

 

蓄積したものを整理する。これにはブログが最適だろう。3000語くらいのしっかりとした文章を書いてから語れ、と言われそうな気もするが、ブログほど「自分を整理できる」ツールはないのではないか。

 

 

ブログは、ハリーポッターに出てくる「憂いの篩」の役割を果たしている。

雑記しかり、商品紹介しかり。「整理の愉しさ」を感じているのだ。

 
ハリーポッター 憂いの篩 に対する画像結果
 
 
 
「整理するだけなら、わざわざネットに載せる必要もないじゃないか」
 
その通り。ここには、あの厄介な承認欲求といったモノが関わっているのだろう。
承認欲求がない人間などいない。程度の違いだ。この欲求を満たす役割もブログは担うことができる。まさにオールマイティの極みだ。ネット界の星野源だ。うまいことを言おうとしたのではない。
 
 
 
 
 
「ブログで飯を食っていく!」と言っている人は、実に素晴らしいと思う。また、実に困難な道のりだろう。そういう人たちを、僕は尊敬する。
 
 
 
しかし、僕みたいにどうでもいいこと、くだらない考えを「整理する」ことに、もっと多くの人がブログを利用すればいいと思う。
ストレス社会に生きる我々は、どこかにその捌け口を見つけようとしている。SNS、2ch…etc
 
 
 
そういったものに感情を垂れ流すよりも、「整理」してみてはどうだろう。頭の中で考えたものがパンクしそうになったら、憂いの篩に入れてみてはどうだろう。
 
 
 
 
 
整理している途中で、いろいろなものが見えてくる。
数学の問題を解く際に、わからなくとも、いろいろと書いているうちに解法をひらめくように。
 
 
 
 
 
これからも、僕は整理していく。
投稿の期間が空いたなら、それはじっくりと整理しているということだ。
ある程度整理したのちに、整理しながら文章を書く。この作業には、一定量の蓄積が必要となる。
 
 
 
 
 
「ブロガーに限らず、物書きとはどれだけつらい仕事なのだろう。」
 
 
 
 
 
 
整理した後に、新たに混とんとした思いが生まれる。
また整理することにしよう。
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

『行動学入門』 さらりと語られる本音

三島由紀夫というと、僕のイメージは「腹を切って死んだ人」というイメージが根強くある。1970年、市ヶ谷の自衛隊駐屯地でこの国を憂いた後、割腹自殺をして壮絶な死を遂げた文豪、三島由紀夫

彼の著作は2,3ほどしか読んでいないが、彼のバックボーンとなる価値観は随所から窺える。

 

今回読んだのは『行動学入門』

日頃から「動けない人間」である僕は、この本を読んで「どうしたら行動できるのか」を学び取ろうとした。

行動学入門 三島 に対する画像結果

 

行動学入門 (文春文庫)

行動学入門 (文春文庫)

 

 この本の構成は

  1. 行動学入門
  2. おわりの美学
  3. 革命哲学としての陽明学

となっている。

 

第一部では、どうしたら行動できるかよりも、「行動」とはどういったものか、行動のメカニズムとは、などといったことが書かれている。

作者は、行動が持つ神秘的な力について、異常なまで崇拝している。

行動は一瞬に火花のように炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持っている。

この文章から、彼の「行動」に対する考えがひしひしと伝わってくるだろう。

 

彼は、東大法学部卒の大変な秀才だ。当時の東大卒なので、頭は大変よろしかったのだろうが、彼は「ガリ勉」を忌み嫌っていた。

ただ机上の空論を垂れ流すだけのインテリ野郎は、彼の美学に反する存在だったのである。だが、こういった考えを言葉に表して、自らに言い聞かしていた様にも思える。

彼は、晩年、ボディービルにボクシング、空手に剣道と己の肉体を鍛えていた。「己の精神を表すのは、己の肉体である」との信念のもとでの行動だったのだろうが、彼の青年時代の写真を見る限りは、「青白く弱々しい文学青年」の印象を抱く。

何の作品だったか、彼は学生時代に「文弱の徒」と罵られたことがあったという。人の考えは想像するほかないが、こういった経験が彼の行動至上主義を生んだのだと思う。

 

第三部は、一度は耳にしたことがあるであろう「陽明学」について書かれている。陽明学は行動することを第一としており、三島の考えをよりいっそう強くしたのか、はたまたこの学問から生まれたのか、そこは分らない。

陽明学の重要な概念である「帰太虚」は、簡単に言うと

 

「肉体という小さな殻が破れたときに、初めて古代の聖賢と同じ次元に達することができる」

 

といったものである。西郷隆盛乃木希典らと同じように、三島も、自ら「死」を選ぶことによって、太虚の境地に達しようとしようとしたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

行動学入門は、作者曰く

私の著書の中でも、軽く書かれたものに属する。

そうだ。

 

しかし、彼も言っているように

こういう軽い形で自分の考えを語って、人は案外本音に達していることが多いものだ。

結果論ではあるが、この作品群から、彼の切腹につながる一路を見ることができるだろう。彼の「おわりの美学」は、陽明学の概念は、「行動」は、切腹によって完成されたのだろうか。それとも単なる気違いだったのだろうか。人それぞれ、考えは違うだろう。しかし、なかなかできることではない。「最も威厳のある死に方」であることは間違いない。

今日、人々に、自らの腹を切るほど、強く強く信じているものはあるだろうか。僕はまだ持っていない。死ぬまでにみつけられればよいのだが。それとも、持ったときには三島のような心持ちになってしまうのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

今の時代、すぐに何でもかんでも手を出したがる、自称「行動力がある人」がいるが、僕はそういう人たちを見て、心地よくはならない。

 

「行動とは、完結するまでが行動なのであって、途中でやめてしまっては行動とは呼べない」

 

中途半端になってはならない。

ナンパをするのなら、女性とよいことをするまでギブアップしてはならないし、喧嘩を始めたのなら、相手が動けなくなるまでぼこぼこにするまでやめてはならない。

 

中途半端に物事をやめてしまう僕には、まだまだ遠い境地であることに変わりはない。

ただ、さらりと本音が書けるブログは、できるだけ続けようかと思う。