ジンセイ入門

男子大学生の戯れ言

私のブログ観

暇な男子大学生でも、いや、暇だからこそ、頭の中でいろいろなことを考える。

 

 

 

 

 

自分の将来についてもぼんやりと考える。生意気ながら、生き方、理想像、異性、世界について思いを馳せる。大学生というモラトリアムだからこそできる贅沢だ。

 

 

 

 

 

そういった思いを発信するツールとして、TwitterなどのSNSが多くの人々に利用されている。思ったことをその時々でつぶやき、生活している。

僕も高校一年生までは、Twitterを大いに利用していた。今考えると、恥ずかしくなるほど、恥も外聞も無くつぶやいていた。

 

そんな現代、ブログを利用している人は、SNSほど多くはないだろう。

ファンならば、タレントのブログを読んでいるかも知れないが、自分で書いている人はそれほど多くはないのではないか。Twitterほど手軽ではないし、写真を中心とするならInstagramとやらが便利だと聞く。

では、ブログとは。ブログには何がある。

 

 

 

 

 

 

 

古今東西の偉人からそうでない人まで、人々は「日記」なるものを書いて、その日その日に感じたこと、思ったことを綴ってきた。小学校の長期休暇では、日記という、あの忌まわしい宿題に身をやつしてきた。今となっては、好き好んで駄文を書いている。小学生の自分に見せたいものだ。

 

 

「一定期間の自分を整理する」という行動は、人間に与えられた特権である。自分の思考、生活、成果を整理するからこそ、整理し区切るからこそ、過去や未来などと言える。

人間以外の生き物に、過去や未来などといった概念があるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

整理するにはある程度の蓄積がなければならない。蓄積した、考え・思い・知識の山から、新たな形のモノを作り出す。

 

 

 

 

Twitterは、蓄積する前に垂れ流している。その場その場で完結してしまうから、整理がなされない。Twitterに対する偏見かもわからんが、頭は使われていないような気がする。楽しいのならそれはそれで立派だけれども。

 

 

 

蓄積したものを整理する。これにはブログが最適だろう。3000語くらいのしっかりとした文章を書いてから語れ、と言われそうな気もするが、ブログほど「自分を整理できる」ツールはないのではないか。

 

 

ブログは、ハリーポッターに出てくる「憂いの篩」の役割を果たしている。

雑記しかり、商品紹介しかり。「整理の愉しさ」を感じているのだ。

 
ハリーポッター 憂いの篩 に対する画像結果
 
 
 
「整理するだけなら、わざわざネットに載せる必要もないじゃないか」
 
その通り。ここには、あの厄介な承認欲求といったモノが関わっているのだろう。
承認欲求がない人間などいない。程度の違いだ。この欲求を満たす役割もブログは担うことができる。まさにオールマイティの極みだ。ネット界の星野源だ。うまいことを言おうとしたのではない。
 
 
 
 
 
「ブログで飯を食っていく!」と言っている人は、実に素晴らしいと思う。また、実に困難な道のりだろう。そういう人たちを、僕は尊敬する。
 
 
 
しかし、僕みたいにどうでもいいこと、くだらない考えを「整理する」ことに、もっと多くの人がブログを利用すればいいと思う。
ストレス社会に生きる我々は、どこかにその捌け口を見つけようとしている。SNS、2ch…etc
 
 
 
そういったものに感情を垂れ流すよりも、「整理」してみてはどうだろう。頭の中で考えたものがパンクしそうになったら、憂いの篩に入れてみてはどうだろう。
 
 
 
 
 
整理している途中で、いろいろなものが見えてくる。
数学の問題を解く際に、わからなくとも、いろいろと書いているうちに解法をひらめくように。
 
 
 
 
 
これからも、僕は整理していく。
投稿の期間が空いたなら、それはじっくりと整理しているということだ。
ある程度整理したのちに、整理しながら文章を書く。この作業には、一定量の蓄積が必要となる。
 
 
 
 
 
「ブロガーに限らず、物書きとはどれだけつらい仕事なのだろう。」
 
 
 
 
 
 
整理した後に、新たに混とんとした思いが生まれる。
また整理することにしよう。