『行動学入門』 さらりと語られる本音
三島由紀夫というと、僕のイメージは「腹を切って死んだ人」というイメージが根強くある。1970年、市ヶ谷の自衛隊駐屯地でこの国を憂いた後、割腹自殺をして壮絶な死を遂げた文豪、三島由紀夫。
彼の著作は2,3ほどしか読んでいないが、彼のバックボーンとなる価値観は随所から窺える。
今回読んだのは『行動学入門』。
日頃から「動けない人間」である僕は、この本を読んで「どうしたら行動できるのか」を学び取ろうとした。
この本の構成は
- 行動学入門
- おわりの美学
- 革命哲学としての陽明学
となっている。
第一部では、どうしたら行動できるかよりも、「行動」とはどういったものか、行動のメカニズムとは、などといったことが書かれている。
作者は、行動が持つ神秘的な力について、異常なまで崇拝している。
行動は一瞬に火花のように炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持っている。
この文章から、彼の「行動」に対する考えがひしひしと伝わってくるだろう。
彼は、東大法学部卒の大変な秀才だ。当時の東大卒なので、頭は大変よろしかったのだろうが、彼は「ガリ勉」を忌み嫌っていた。
ただ机上の空論を垂れ流すだけのインテリ野郎は、彼の美学に反する存在だったのである。だが、こういった考えを言葉に表して、自らに言い聞かしていた様にも思える。
彼は、晩年、ボディービルにボクシング、空手に剣道と己の肉体を鍛えていた。「己の精神を表すのは、己の肉体である」との信念のもとでの行動だったのだろうが、彼の青年時代の写真を見る限りは、「青白く弱々しい文学青年」の印象を抱く。
何の作品だったか、彼は学生時代に「文弱の徒」と罵られたことがあったという。人の考えは想像するほかないが、こういった経験が彼の行動至上主義を生んだのだと思う。
第三部は、一度は耳にしたことがあるであろう「陽明学」について書かれている。陽明学は行動することを第一としており、三島の考えをよりいっそう強くしたのか、はたまたこの学問から生まれたのか、そこは分らない。
陽明学の重要な概念である「帰太虚」は、簡単に言うと
「肉体という小さな殻が破れたときに、初めて古代の聖賢と同じ次元に達することができる」
といったものである。西郷隆盛や乃木希典らと同じように、三島も、自ら「死」を選ぶことによって、太虚の境地に達しようとしようとしたのだろうか。
行動学入門は、作者曰く
私の著書の中でも、軽く書かれたものに属する。
そうだ。
しかし、彼も言っているように
こういう軽い形で自分の考えを語って、人は案外本音に達していることが多いものだ。
結果論ではあるが、この作品群から、彼の切腹につながる一路を見ることができるだろう。彼の「おわりの美学」は、陽明学の概念は、「行動」は、切腹によって完成されたのだろうか。それとも単なる気違いだったのだろうか。人それぞれ、考えは違うだろう。しかし、なかなかできることではない。「最も威厳のある死に方」であることは間違いない。
今日、人々に、自らの腹を切るほど、強く強く信じているものはあるだろうか。僕はまだ持っていない。死ぬまでにみつけられればよいのだが。それとも、持ったときには三島のような心持ちになってしまうのだろうか。
今の時代、すぐに何でもかんでも手を出したがる、自称「行動力がある人」がいるが、僕はそういう人たちを見て、心地よくはならない。
「行動とは、完結するまでが行動なのであって、途中でやめてしまっては行動とは呼べない」
中途半端になってはならない。
ナンパをするのなら、女性とよいことをするまでギブアップしてはならないし、喧嘩を始めたのなら、相手が動けなくなるまでぼこぼこにするまでやめてはならない。
中途半端に物事をやめてしまう僕には、まだまだ遠い境地であることに変わりはない。
ただ、さらりと本音が書けるブログは、できるだけ続けようかと思う。